ウイスキーにまつわる思い出話し
ウイスキーにまつわる思い出を勝手気ままに書いてみました。
備忘を兼ねて今の気持ちを思うままに自分に向けて書いてます。
ダラダラ長いし第三者の方々が読んでも退屈で鼻に着く部分もあるかと思われます。
せっかくご訪問頂いたのに申し訳ありませんが、スルーでお願いします。
m(_ _)m
ある事を思い出して、サントリーの山崎を探している。
覚悟はしてたが、今のところ見つかってない。
近所の百貨店、スーパー、酒屋は行き尽くした。
探してるうちにある事に気付いた。
それはレッドとホワイトも無いってこと。
レッドは時折ジャンボ・ボトルを見掛けることもあったが、どこも普通サイズのボトルは置いてなかった。
もう近所では山崎の発見は諦めたその時、こっちを見つけた!本命では無いのになんだか無性に嬉しくなって、購入。
レッドは先日の麗の雫を飲んでいるうちに、やたらと懐かしくて気になり始めた。
機会があったら飲んでみたい程度だったがそれ程高額でもないし、つい。。。正直な感想は麗の雫よりも旨い。
麗の雫は続けて飲むと持て余してくるが、レッドは最後まで飽きることなく心地良く飲んでいられる。
流石元祖「少し愛して、長く愛して。」だな。
ホワイトはサミー・デイヴィスJr.が好きだったわけではない。学生時代に散々飲んだウイスキー。
節約の為に友人のアパートや自宅で家飲みする事が多かったが、飲み仲間の1人が拘っていたのでホワイトなことが多かった。
自分を擁護する訳では無いけど、
当時は今の大学生と違ってやる事は多くなかったので、飲み代を稼ぐためにパチンコやマージャンをやっては上がりで飲み歩いてる学生は普通にいた。
駅から学校までの間にあるパチンコ店へ入ると仲間内の誰かしらが居て、その内の1人でも打止めに出来たら揃って居酒屋へ流れ込む。
誰も出なければ誰かの下宿先やアパートで家飲み。
母親には『立てばパチンコ、座れは麻雀、歩く姿は二日酔い』と言われてたほど。
昔のパチンコは立ってやるもんで、玉も1発づつ手で投入していた。
母親はパチンコをやらないので記憶はそこで止まっていたと思われる。
そんな感じで学校の帰りは日々友人宅で飲んで翌朝そのまま登校なんてことは普通だった。
自宅へ帰るのは数日毎だったが帰るときは友人達をゾロゾロ引き連れて、自宅で家飲み。
亡くなった父親も好きだったので、そんな時は自分の部屋や応接間では無くリビングで宴会が始まる。
母親は飲めないけど賑やかなのが好きなので、その輪には必ず入っていた。
我が家はそんな雰囲気だったこともあり、自分が地元の友人と飲んで遅くに帰宅すると、学校の友人達と家族が盛り上がってるなんてことも普通にあった。
もちろん学校の友達と飲んでて、帰宅すると地元の友達が家族と盛り上がってるといった逆パターンも。
今じゃ考えられないな。
父親はアパレル系の会社を経営してたこともあり、中元歳暮にはやや高めの洋酒が箱で送られてきた。
タイミングさえ合えばおこぼれに預かっていたので、その時期は楽しみでもあった。
送られてくる酒は国産だと決まってサントリーで、リザーブかロイヤルが多かったが稀にオールド(ダルマ)が送られて来てたように記憶してる。
輸入品ではウイスキーならジョニーウォーカーの黒(ジョニ黒)、オールドパー、シーバスリーガル、ディンプルあたり。
ブランデーなら馬鹿の一つ覚えのようにレミー、カミュー、ヘネシーのX.O.やナポレオンがほとんど。
稀にVSOPクラスも送られてきて、もちろん飲まれてはいたが、あろうことか母親は紅茶に入れたり料理やお菓子作りに使ってることが多かった。
大学生ごときの自分にはどう逆立ちしたって手の届かない木箱に入った高級ウイスキーが送られてくるたびに、我が父親を羨望の眼差しで見ていた半面、不思議と住む世界の違う遠い存在に感じる瞬間でもあった。
たまたま経営学部ではあったが、興味は父親の事業とは全く異なるIT1本だったせいもあったのかも知れない。
最初の就職先も希望にかなった大手電機メーカーの電子交換部門(今で言う通信部門)で、半年の研修期間が終わると通信関係のプログラミングを担当することになったくらい、アパレルメーカーの父親とは違う世界を目指していた。
酒の話に戻すと、
実は父親はサントリーの角が好きで、国産のウイスキーが届くと全て近所の馴染みの酒屋で角に取り替えてもらっていた。
酒屋のオヤジさんは自分と同級生の女の子の父親でもあり伯父の同級生でもあったので、いくらでも我儘はきくが酒屋的にはロイヤルやリザーブを角と交換なんて美味しい話なようにも思えてならなかったのを覚えている。
ちなみに当時はサザエさんに登場する三河屋さんのように定期的に御用聞きに来ていて、ウイスキーの木箱を勝手口に置いておくと暗黙のうちに持って帰って後で角を持ってきてたように記憶している。
ところが当時は高額だった輸入酒だと町の酒屋ではさばき難かったらしく、1、2本ならまだしも量が多かったせいもあり交換は難しかったようだ。
そんな事情で当時1本1万円、あるいはそれ以上していた輸入酒だけは、自分の従兄弟や叔父にあたる甥っ子を始め兄弟など親戚達に配ったり人が来るとふるまっていたので周囲からは喜ばれていた。
もちろん自分もご相伴にあずかってたので、早くから分不相応な酒の味を知っていた。
ブランデーの味わい方はそんな父親から教わったが、当時は我が家に普通にあるブランデーの価値までは全くわかっていなかった。。。
というよりも自宅で普通に飲んでいた輸入酒の有り難みを実感したのは働き出してからだった。
父親は輸入酒の中ではジョニ黒とオールドパーとブランデーは好きだったようで、それだけは角の合間に時折楽しそうに飲んでたのを覚えている。
それらの酒がある時は人が来ると「今日はイイ酒があるんだよ。」と言いながら楽しそうに一緒に飲んでいた。
だがそれ以外の輸入酒は人にすすめてるのに、父親は角を飲んでいる光景が妙に滑稽だった。
ところで、何故突然山崎を探し始めたかと言うと、
高校時代一緒にアメフトをやってた友人と数年前まで付き合いは続いていた。
その友人と飲む場所は結婚前だと浅草周辺が多かったが、結婚後は決まって原宿だった。
その店はその友人が結婚前に芸能人も負けそうなほど奇麗な奥さんとよく一緒に行ってた思い出の店らしい。
どういう訳かお互い結婚してからは決まってその店へ行った。
その店ではずっと山崎をキープし続けていた。
山崎は奥さんが好きな酒だったらしいが、子供が出来てからは飲まなくなったとか。
そんな訳で結婚後は何故かその友人の奥さんとの思い出に付き合うようになっていた。
2人で飲んでいると必ず思い出話が1度は出てくるが、それが微笑ましくて心地よかったので自然とそうなったのかも知れない。
足の病を患ってからは元気だった頃を思い出すと、不思議なことに悔しさは無いがやたら懐かしく思う。
特にその友人とアメフトについて話してた頃はとて楽しかった。
若くて元気だった頃の思い出→アメフト→その友人→楽しく飲んでた→山崎
そんな流れである時無性に山崎が恋しくなったのが、探し始めたきっかけ。
いつか見つかるといいなぁ。。。
そんな訳で、父親や友人達の影響もあり酒を覚えてからしばらくはウイスキーだった。
ところが働き出してしばらくすると、バーボンと出会ってしまう。
一緒に配属された同年代の気の合う同期と配属先の上司がたまたまバーボンが大好きだったことがきっかけだった。
今でこそ千円、2千円で買えるようなバーボンが当時3千円、4千円は当たり前、中には1万円近くするものもあった。
安月給ではあったが一度覚えてしまうともう後には戻れない。
中でも好きだったのはジャックダニエル(厳密にはテネシー・ウイスキー)とワイルドターキー。上司の一押しはハーパーで、同期はアーリータイムズ。
ジャックダニエルとターキーは高過ぎて滅多に飲めなかったが、次に気に入ったのはアーリータイムズ。
当時は若くて貧乏だったなりに色々飲んでみて、結局アーリータイムズに落ち着いた。
アーリータイムズはジャックダニエルやターキーが千円台で買えるようになった今でも大好きで、バーボンを買いに行くと当時憧れだった酒を差し置いて手に取ってしまう。
母親は長いこと誕生日になると色々なバーボンを2本ずつプレゼントしてくれていた。
学生時代の友人も誕生日に今でこそ2千円そこそこで買えるが当時は高かったメーカーズマークを持って遊びに来てくれたのを覚えている。
そういえばその友人と同じ仲間内でバーボンでは無いけどバランタインが好きだった奴もいて、当時はやっとの思いで飲んでた思い出もあるが、今では千円程度で購入できてしまう。
昔は海外へ遊びに行くと日本では高額な大好きなバーボンが激安なので、アル中になりそうな勢いで飲みまくった思い出もある。
昔高級品だった輸入品が今じゃ日本にいてもアル中になりそうなくらい安い。
我々世代のように高額な輸入品に憧れた思い出があって、かつそんな酒を好きになってしまった輩にはたまらない時代になったもんだ。
それにしても、この歳にして改めて振り返ってみるとありきたりな酒しか飲んでねぇなぁ。
と、つつくづく凡人であることを実感。
とはいえ若い頃のように量は飲めなくなってしまったところは悔やまれるが、、、
地味に今を楽しめるからいいのかな。