T.B.S.F.(TBSF)管理人の本当のひとりごと/日記

ややこしい話しは厳禁、ラフに言いたい放題。
『家族』「料理」「キャンプ」「釣り」をこよなく愛する早期退職プー太郎オヤジのひとりごと(日記)。
※キャンプも釣りもコロナ禍で自粛中な為行けてません(涙
 インドアの趣味である料理ネタばかりだけど、
 それも悪くないと思い(諦め)始めた今日この頃、なんだかなぁ。。。
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アウトドアの真似事の思い出の陰にはいつも父親がいた

早いもんで今年は親父の三回忌だった。
だが自分や母親の体調など諸々あって、ちゃんとはしてあげられなかった。
ちゃんと・・・どういったことをするのが「ちゃんと」なのかは特に意識してるわけじゃないけど。
そもそも何も信仰してないのであまり心苦しいとも思わないし、今後もきっちり何回忌だのなんだのと重んじようとは全く思わない。
そんな考えに母親も何も言わないどころか「なんなら墓じまいしてもええよ。」とまで言ってるくらいだ。
自分が無関心なのも母親にそこまで言わせたのも、実はお墓のお陰。
父親が亡くなった時も葬儀場の人が驚くほどぼったくるお墓で、「こんなこと絶対言ってはいけないことだし普通は言わないことではありますが、お墓について考えた方がいいかもしれませんね。」とまで言わせてしまったお墓。
父親が見つけてきたお墓だけど、子孫のためにもここでなんとかせねば。。。
ご先祖さんに申し訳ない。
ってことで、只今お墓については思案中。
 
 
かなり横道にそれたが、ここから本題。
親父の仏壇に線香をあげて頭を下げて拝んでいると、毎度色々な思い出が頭の中を駆け巡る。
沢山の思い出の中の一つにアウトドアの真似事がある。
幼いころから外で遊ぶのが大好きで、庭があると一日中今で言うところの「アウトドア」の真似事をして過ごしたのを覚えている。
何故だかその頃のことを思い出すと、最終的には父親の影がちらついてくる。
 
子供の頃外房方面に別荘があった。
新宿の高層ビルのあたりに住んでた父方の祖父母はビルが建つときに立退いた訳だが、その後一旦中野へ引っ越したものの諸事情によりその別荘へ住むこととなった。
 
新宿の祖父母の家の庭には納屋があってその中にはなんと錆々の農機具がしまわれており、その納屋の中でそれらを眺めてるのが好きだった。
今じゃ考えられないけど新宿なのに井戸もあり、夏はスイカを冷やしてたのを覚えている。
その庭でアウトドアの真似事をするのが大好きで飽きずに朝から晩まで遊んでいられた自分としては、庭の狭い中野の新居への引っ越しは残念で仕方なかった。
 
父との思い出とは言わないかも知れないけど、
ほとんど毎週末は両親に連れられ祖父母宅へ通っていたが、庭で遊んでる自分を祖父と一杯飲みつつ楽しそうに眺めている(見守っている)父親の姿を今でも時折思い出す。
今思うと父は毎週々一杯飲みつつ祖父母とどんな親子の会話をしてたのだろうか。。。?
 
中野へ引っ越してからの記憶はほとんど無いまま、ある時祖父母が外房の別荘へ住むことになった。
当時はそれがとても嬉しかった。
誰も居ない別荘よりも祖父母の家となった方が幼い自分的には行きやすく楽しみでもあったし、何より一人でも行けるのは嬉しかったのを覚えている。
 
だだっ広い庭の片隅には一面食虫植物が生息する場所があり、物心ついた時にはそれは当たり前になっていた。
庭からはみ出た狭い一画に少しだけ生息していたところがあったが、ある時その部分が厳重に囲われた。
ほんの1m四方程度が囲われていて、なんとそこは県指定の食虫植物の保護区となっていた。
我が家の庭にはどうしようもないほど生息してる食虫植物を、県の大人の人達が必至で保護してる1m四方の囲いが子供ながらに愉快で仕方なかった。
「うちの食虫植物、言ってくれれば好きなだけあげるのに。」
みたいな。
その時に大人の事情や食虫植物について色々教えてくれてたのは父親だった。
 
そんな庭でアウトドアのまねごとをしながら過ごすのが好きだった。
火をおこしても大げさでなければ叱られないし(ただし火を扱うときは目の届く家の真ん前限定だったけど)、好きなだけ穴をほじってもOK。
近寄るのが怖いほど草ボウボウの場所もあり探検気分で歩き回っていた。
まさにやりたい放題。
しかし、後に広い庭には父親が経営したいた会社の工場が建てられ、気が付けば別荘は会社の寮となり祖父母はまるで住み込みの寮母さん状態。
それでも気にせず遊びに行ってたけど。
今思えば親父は自分の会社と祖父に何らかの関係を持って欲しくてのことだったんだろうなぁ。
 
小学校へ入る頃になると、父親の会社が丸ごと借り上げて寮にしていたアパートが市原にあり毎年夏休みには終わるまでそこで過ごした。
そこを拠点にして週末毎に養老渓谷周辺でデイ・キャンプってのが定番だった。
そして我が家にはルールがあって、
飯盒と米と醤油だけを持っていき、おかずは現地調達!
一見厳しいようではあるが、それが実に楽しかった。
調達するおかずは主に魚。
調達できなければ飯盒で炊いたメシに醤油を掛けて食うことになっていた。
あの頃はそんなことが家族みんなでゲーム感覚で楽しめた。
ある時1匹だけしか確保できなかったことがあった。
しかも近くで釣りをしてた人が撤収する際、バケツから飛び出した1匹だ。
それを見逃さなかった妹が、釣り人が去ると同時にすかさずキープ。
その小さな1匹を笑いながら家族で分け合って食べた。
父親は大きく口を開けて「危うく醤油メシになるところだったな。」
と、こんがり焼かれた10cm有るか無いかの1匹の小魚を前に高らかに笑っていた。
その姿は何十年も経った今でも瞼の裏に焼き付いており、飯盒を見るたび思い出す。
 
メシ炊きもバーナーなんて気の利いたものは無く、薪を集めては火をおこして炊いていた。「石を集めてかまど風に囲ったら小枝を集めてメシを炊く。」
その工程も大好きだったが、子供ながらに飯盒で炊いたメシも大好きだった。
かまどを作って薪を集めるのは自分と妹の仕事で、準備が整ったら炊き上げるまでが父親の仕事。
食べる際の器も適当で、飯盒の本体はもちろん蓋や中蓋、持ってきたものの何かを利用しながら家族分のメシとおかずを乗せて食べる訳だが、その辺をうまい具合に何とかするのが母親の仕事だった。
 
そんな色々ある父親との楽しいアウトドアな思い出の中の一つに、十徳ナイフがある。
それはでかいスプーンとフォークが付いた、ごついビクトリノックスのようなもの。
写真は残ってないのでネットを探したが似たようなものは無かった。
近かったのはこれかな。これほどスマートではなく、もっとでかくてごつかったけど。
スプーンは本体からボヨヨーンとはみ出してるくらいの大きさだった。
今思えば決してかっこいいものではなかったが、それがとても気に入って普段家にいるときでさえ思い出すといじくりまわしていたのを覚えている。
なんせ、缶切りやナイフやスプーンやフォークやその他何に使うかわからないものがコンパクトにまとめられて、知識欲が旺盛なガキんちょの想像力を掻き立てる。
ナイフもごつくて引っ張り出してはビビっていた。
子供の力では引っ張り出すのが大変なほど固かったが、今思うと年がら年中いじくり倒してた割にはよくケガしなかったもんだと他人事のように感心する。
父親はそれを「十徳ナイフって言うんだよ。」と教えてくれた。
本当かどうかは定かでないが、父親に「十種類じゃないじゃん!?」と尋ねたら「十徳とは沢山という意味だよ。」と言ってたのを覚えている。
 
そして小学校も高学年になると、母親にYMCAのキャンプで使うナイフと方位磁石を買ってもらった。
(我が家では何故かボウイスカウトではなくYMCAだった。)
方位磁石はまるで懐中時計のようで、当時にしてみればかなり高額なものだった記憶がある。
ナイフは普通のものだったが、かすかな記憶だと自分専用の十徳ナイフが欲しかったのに持っていくのが許されてたのは単機能のフォールディングナイフだった。
そのために欲しくて仕方なかった十徳ナイフが買えず、せめてごつくて男を感じるシースナイフとも思ったがそれさえ許されておらず(むしろそっちのがダメでしょうけど)とても残念な思い出として今でも時折思い出す。
 
その後十徳ナイフを引きずったまま大人になってアウトドアに興味を持ち始めても普通のナイフにはあまり興味がなく、所有してた単機能のナイフは昔ながらの肥後守やオピネルのフォールディングナイフやイカサキくらいなもの。
アウトドア全盛時代でもバック、ガーバー、G・サカイ、コルト、ログなどその他有名どころのシースナイフやフォールディングナイフには手を出さなかった。
と言っても全く興味がなかったわけでは無く、店頭で綺麗に仕上げられてるものを見つけるとうっとり眺めてはいたけど購入するまでには至らなかった。
そのうち余裕が出来たら観賞用に「佐治武士」あたりがお手頃だし綺麗だし欲しいとも思うけど、今はいらないかな。
 
そんな訳で当時から興味津々で気に入ったものを見つけると今にも買っちゃいそうになってたのは、多機能を美しくまとめ上げて洗練されたヴィクトリノックス、ウェンガー、ヘンケル、レザーマン、SOGなどの “十徳ナイフ” だった。
それっぽく言うとマルチツールってやつ。
おそらく父親が持ってた超お気に入りの十徳ナイフが影響してんだろうなぁ。
特に収集する気もなかったが、こちらは気が付けばかなりの数を所有していた。
そんな十徳ナイフたちを眺めて一杯飲んでると、必ず父親と父親の十徳ナイフのことを思い出す。
 
そんな訳で、アウトドアというと最終的には地味に親父のことを思い出す。
そして当時使っていた飯盒とその十徳ナイフは今ではもう無くなってしまったことをちょっとだけ残念に思いながら、手元の十徳ナイフを眺めてはうまい酒を飲んでいる。
そんなささやかだけど幸せを感じることが出来る時間をくれたのは親父なのかな。
 
 
実は前回登場したパラシュートコードはMy十徳ナイフに着けてみようと買ってきたもの。
そのうち気が向いたら、My十徳ナイフたちについて書いてみようかな。



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